第7回:大牟田のモモちゃん
プロダクトアウトとマーケットイン。前者は生産物を市場に売り込むことであり、いいものは売れて当然という考え。後者は市場の需要を見て生産することであり、お気に召すものをお作りしますという考え。市場データが増えてくるとマーケットインを経営に取り込む。今はやりのビッグデータはその最たるもの。
まちづくりも同じ傾向を持つ。まちが来訪者からどのように見られているかをあまり考えず、思いついた名物、祭り、有名人、出来事をぐいぐい前面に押し出す。名前を冠した施設やモニュメントを造ったり、パッケージだけ工夫した菓子を作ったり。しかもそこから一歩も展開しない、ストーリー性を持たない。
外から見たまちの景色、外から来て感じるまちの空気、来訪者の気持ちになって考えてみたい。そのうえで伝えたいまちの良さ、楽しさを選び出し、ストーリー性を組み上げる。来街者に迎合するとテーマパークになり、来街者の気持ちを無視すると閑古鳥が鳴く。
大牟田市は三井三池炭鉱で発展した街であり、炭鉱遺跡の世界遺産登録を目指している。候補施設を見学し説明プレートを読むにつけ違和感を感じる。いち押しが団琢磨である。三井の技官として炭鉱や港湾を整備し、確かに功労はある。過去の栄華を象徴する人物であるが今につながらない。
大牟田の商店街の衰退は激しい。しかし侘しさを感じない。市民交流推進や介護・障害者支援に関わる施設が点在し、優しさがある。大牟田は三池争議の歴史を持つ。歴史的評価は定まっていないが、少なくとも資本主義に対し検証を行った街である。そうした原体験がこの街の居心地を作り上げている。この街に生まれこの街の歴史に関わった向坂逸郎を打ち出すことの方が大牟田を語ることができる。予定調和でなく喧々諤々。収まりの悪さがまちはブラッシュアップする。
商店街を歩いていると猛然と花屋のモモちゃんが走ってくる。カメラを向けると脱兎のごとく走り去る。想わせぶりでそっけない。ツンデレならぬデレツンモモちゃん。モモちゃんはまちづくりを体現している。
大牟田商店街
"気"は残っている。侘しさはない
真面目な郷土菓子
おいしい。だけど「語れない」
花屋のモモちゃん
人懐っこくカメラ嫌い
第6回:歌志内の静かなカア吉
歌志内市は空知地方北部に位置する旧産炭地。最盛期には山の斜面に住宅が張り付き5万近い人たちが暮らしていた。今は4千人に満たない日本一小さな市である。住宅を撤去した斜面をスキー場とし国際大会も開催する。宿泊施設は2つだけ、観光による地域振興に及ばない。
雪国らしく市街地の街区は整備され街路が広い。初秋の風は街中を涼やかに通り抜ける。まちなかに店舗は少ない。以前スーパーだった敷地は後継店舗の出店はなく消防署になった。訪れたのは日曜日のお昼どき、郷土館だけが開業していた。
商店街もショッピングセンターも多くの店舗からなる商業集積である。商業集積は商圏、周辺の人口数と消費特性で決まる。本来商売はお客のいるところまで出向くことから始まる。人々の往来が激しくなったり、多くの人々が住みついたりすると メ商圏モを確保できるためそこに店を構える。商圏の規模拡大に応じ店が増える自然発生型の商業集積が商店街である。
店を構えることとは先行投資をすることである。投資分を回収し利益を上げることを目指す。商圏の維持拡大が見込めないならば撤退する場合もある。商圏の縮小は商店街の縮小となることは必定である。商圏規模に見合った構成を考え、事業収支計画に基づき商店街を再構築する、ビジネスとしての側面をしっかりとらえることが大切である。
飲食店は空いていなかった。店先で植木に水をやる店主に無理をいい食事をとる。歌志内名物のなんこ鍋、馬の内臓の鍋である。秋田から来た炭鉱夫が持ち込んだ料理とか、確かに馬力がつく。店主から話しかけられながら食べたので残せなかった。3日間私の体はなんこ鍋に支配された。
歌志内は急峻な谷地の中に立地する。小さな川しかなく大きな工場団地は作れない。農産物にも特徴がない。歌志内の一番のよさは静かさだという人もいる。商店街で出会ったカア吉は確かに一声も鳴かない。
歌志内市街地
道路左が郷土館ゆめつむぎ
カア吉の佇まい
羽音も静か
なんこ鍋全景
多少勇気がいる
第5回:夕張のミックスワンコ
新夕張駅で乗り換えてから乗客は私一人だった。日中は夏の暑さも残る北海道、シーズンオフではない。夕張駅に降り立つと巨大なホテルが闇夜に潜む。近くのコンビニの看板だけが輝いていた。
産炭地として膨れ上がり、閉山後のまちのあり方を見いだせなかった。「炭鉱から観光へ」定住人口の減少を交流人口で賄おうとして多くの観光施設を設置した。ことごとく失敗を重ね、財政再建団体に陥る。明日はわが身を感じとり多くの見学者が訪れる。皮肉な話だ。
観光イベント国際映画祭は規模を縮小しているが今も続いている。映画を切り口に地域再生を目指している。一番商店街だった本町商店街は「本町キネマ街道」として建物に大きな映画看板を掲示するまち起こしを行う。さしたる映画ファンではない私にも見覚えがあり懐かしさを感じる看板が立ち並ぶ。一番多い時で100を超える看板があった。今は48枚。掲示する建物自体がなくなってしまった。
商店街の再生手法として、テーマパーク化がある。映画の街、昭和の街、外国風の街、蔵や屋敷の街など。特に手が込んでいればマスコミに取り上げられ、多少来街者は増える。しかし客は飽きっぽい、一度見れば十分である。この手法で儲かるのはコンセプト開発業者とマスコミだけ、商業者は一層疲弊する。
客を呼び込む努力を地道に重ねている人たちもいる。夕張駅に隣接したバリー屋台、複数の飲食店からなる、炭住の柱や梁を使って建てた温もりのある食堂兼飲み屋である。夕張ではカレーそばをご当地グルメとして打ち出している。そこそこおいしい。
商店街には人もワンコもいなかった。炭鉱地独特の坂の多い道を歩いているとミックスワンコを連れたおばあさんに会った。後ろから声をかけたのでひどく驚かれた。人がいないので声をかけられないと思ったか、私が怖かったのか。前者であってほしい。
本町キネマ街道
3人いないと成立しない
ミックスワンコ
驚かしてしまった
バリー屋台
カレーそば以外も食べたい
第4回:神戸元町のカフェワンコ
神戸元町・トアロード界隈を探索して考えた。
港町らしい古びたコンクリート造の建物が多い。間口2間(4m弱)のお店が点在し、中には間口1間に満たないものもある。店舗ファサードはすべてが店主のメッセージボードだ。自分はどんな商品を取り扱い、それがいかにお客様にふさわしいものであるかを主張する。しかしその主張は過ぎたものではない。お店同士もせめぎ合ったりしない。
お店は商品を売りつけようとはしていない。店主の世界観を示し、その心地よさに共感してくれるお客様に、共感の証として商品を買ってほしい。控えめではあるが、商人の矜持を感じさせる店が多い。
間口も狭く奥行きもないお店でもガラス越しに店内を見通せる。来街者は気楽にお店を出入りする。お店と街路との境界が溶けてなくなっている。来街者は友達仲間、家族など少人数で散策している。気になるお店にふらふらと迷い込む。なのはな畑に舞うモンシロチョウを想った。
ショッピングは2通りある。義務的なものとレジャーとしてのもの。日常生活に必要な買い物はできるだけ簡単に済ませたい。お店からの売り込みは必要な情報となる。ショッピングを楽しむときには人はトレジャーハンターになる。自分だけの宝探し。ヒントはあっていいが、度が過ぎると興ざめする。元町のお店はそうした加減を十分に心得ている。
お昼は20席程度の小さなお店でプレートランチを食べた。店内装飾は淡色が基調でシンプル。お店の雰囲気にすっと入り込める。ご飯は中盛りとしたが男としては小盛りの風情。デリカフェサイズだ。
1日歩き疲れカフェに入る。フレンチブルドックのあくびと出会う。1代目はコーギーのシジミだったが同じ犬種だと思い出し悲しくなるため、全く風貌の違うあくびが2代目に就任した。体重15キロ力自慢のおてんば娘。私の手をペロペロペロペロペロペロなめて歓迎してくれた。お澄ましができるようになるとシジミに一歩近づく。
古びた元町界隈
迷い込む楽しさ
カフェワンコあくび
アップにもご要望通り
魚と野菜のランチプレート
惣菜はショーケースから選ぶ
第3回:鴻之舞のコン吉
もっとも多い時で1万6千人が暮らしたまちに今はだれも住んでいない。小学校、中学校、病院、派出所、映画館、火葬場まであったこのまちは、煙突一本を残してすべて取り壊され夏草が生い茂る丘陵地帯になっている。
北海道紋別市にある鴻之舞地区。金山として東洋一の生産量を誇り、戦前、戦後にかけて日本全国から人が集まりこのまちに暮らした。紋別市中心地との間には鴻紋軽便鉄道が敷設され、人荷の流れを作った。鴻之舞地区には「世話所」が設けられ、同地区へ人の出入りを管理していた。同地区の治安はよく、酒酔いのトラブルを避けるため飲食店は1店舗だけ。小売店舗も会社側が営業し、給与天引きの付けが利く店舗ばかり。商店街とは言いにくい、工場の購買部のような有様。全長13kmに及ぶ広大な内陸部に、多くの住宅が並び、紋別市役所の支所、警察・消防、教育機関などの公的施設、神社仏閣まで備え地域をあげてお祭りを行っていたのであたかも一つの自治体のように捉えられるが、実態はとても大きな鉱物採掘工場だったのかもしれない。
昭和48年に鉱源枯渇により57年に及ぶまちの歴史を閉じる。石油危機が勃発した年であるため鉱山労働者の雇用について議論となったが、まちから人がいなくなりすべての建物が解体されることを問題とすることがなかった。閉山後あっという間にまちは消えてしまった。
鴻之舞を訪れたら、すがすがしい北海道の丘陵地帯の中から、当時の人びとの暮らしと建物を”霊視”しなければならない。車を止めて鴻之舞の風を感じていたら、野良ぎつねのコン吉が現れた。訪問者から食べ物をもらうことが多いのだろう。上目づかいですり寄ってきたが、食べ物の持ち合わせはなかった。コン吉には残念なことをした。
私自身は紋別市内で海産物を堪能した。オホーツクの人はホタテの味を海岸別に言い当てることができるそうだ。私には無理である。ただただおいしかった。
鴻之舞の今
まちの名残は全く感じない
コン吉の立ち姿
本当の名前は知らない
オホーツクの幸
一日3皿限定のタラバガニ
第2回:通町のお散歩ワンコ
JR秋田駅から広がる商店街の衰退に歯止めがかからない。商業施設の「箱もの」は作っているが、そこに「商い」としての少しざわついたそわそわした気持ちが湧かない。跳ねた気持ちでショッピングをする気が起こらない。
駅前から広がる広小路に面し、千秋公園の反対側の元赤十字病院の跡地に「エリアなかいち」ができた。まち歩きコースの起点となっており、まちなかをめぐる巡回バスぐるるも通る。文化交流館、美術館、商業施設からなり、中心市街地再生の起爆剤・原動力として期待されたはずである。現状は商業施設の核店舗が撤退し、来館者はまばら、まちなかの元気のなさをさらけ出している。
つまり「箱もの」を作っただけ。広小路からも中央通りからも商業施設の存在を感じることはできない。設計屋の作品群。商業者がいかに頑張っても、とても売り上げを見込むことはできない。こうした作品施設は全国に数多くあり、猛省されているはずである。言葉を失う。
JR駅構内の観光案内に立ち寄る。各地を訪問した際、観光案内に立ち寄りまちを代表する商店街とおいしい郷土料理を聞く。健康的な秋田美人の女性が丁寧に教えてくれた。商店街は通町商店街、食事は川反地区を勧められる。
「ぐるる」で通町商店街に行く。街路が整備され、店舗ファサードも工夫されており、歩いていて楽しい。お散歩ワンコもけっこういる。地元スーパーもあるから毎日買い物に通うこともあるかと思う。清潔感はあるが整然としすぎており、工夫されたファサードも舞台の大道具のようで、まちの息づかいを感じない。
まちのにおいを感じられたのは川反地区である。早い話が飲み屋街。全国各地の商店街で飲食店舗が主流となる傾向が高まっている。これでは昼の顔が作れない。お散歩ワンコと買い物できる店づくりをしてみたらどうか。「ワンコと買い物」でにぎわいを増している商店街がある。いずれコラムで紹介したい。
通町商店街
雪の季節も歩きやすい
たぶん秋田犬ではない
まっすぐ歩かず走り回る
秋田郷土料理
鍋の季節がベスト
第1回:石垣島のリッチ君
夏が始まる前に石垣島に行った。すでに陽光は十分にまぶしい。植物は緑を増し、鮮やかな花を咲かせる。
石垣島の商店街はユーグレナモールという。日本初のネーミングライツの商店街である。石垣市公設市場を挟んで2本の商店街からなり、お土産物屋やカフェなどが並ぶ。空き店舗はない。通りも店舗ファサードも明るく、清潔感がある。店頭のおばあがぼそぼそと声をかけてくる。少し前に商店街にあった宿屋が火事に遭い、その焼け跡には少し驚いた。
石垣島公設市場には本州では見慣れない食材が数多く並ぶ。一番の売りは石垣牛であり、予約で数週間待ち、いい値段である。石垣島は子牛の餌となる植物がよく育つので、子牛の生産は盛んであった。成牛までの技術がなかったため、その後は本州に送られそれぞれの地域のブランド牛となっていた。技術向上により成牛まで育て上げることができ、石垣牛がブランド牛として高く評価されるようになる。石垣牛は島の卸市場で取引されるが、入札権は公設市場の関係者しか持っていない。故に、石垣牛は商店街でしか買えない。圧倒的な集客キラーアイテムである。
島グルメも石垣牛の焼肉が筆頭格。もっと手軽に食べられる郷土料理は八重山そばである。大きなつかみでいうと、先島諸島で代表的な麺類は石垣島の八重山そばと、宮古島の宮古そばがある。違いはうまく言えない。具は豚肉とかまぼこで、あっさりしていて小腹を満たすのにちょうどいい。とてもおいしく気に入って、滞在3日のうちお昼に2回食べた。
八重山そばのお店にリッチ君は登場する。お客様が引けた午後の遅い時間帯。リッチ君はブラックトイプードルの6歳の男の子、昔は真っ黒だったが最近は少し明るい色の毛も混じり始めたとか。おとなしく、吠えたりせず、お客様に撫でられたまま。くりくりした瞳で眺められるとドキドキしてしまう。2日続けて食べに行ったのはリッチ君のせいでもある。
石垣市公設市場正面
おばあの迫力ある出店
リッチ君
賢くて礼儀正しい男の子
八重山そば
食べごたえある豚肉トッピング
コラム
商店街ワンコ
商店街をきっかけにまちづくりに取り組むこととなった。もともと商店街の荒物屋(日用雑貨品店)の息子で、小学校に上がる前から店の手伝いをしていた。昭和40年代の商店街の賑わいは体に染みついている。
平成10年に中心市街地活性化法が制定され、まちづくりの基本課題として商店街が取り上げられる。シャッター通り商店街という言葉もこのころから使われ始めた。お客様が一人も来ないことを『商店街を見渡しても犬数匹しか見当たらない』などということも多かった。
ワンコは商店街衰退の象徴か。何をいうか!看板娘ならぬ看板ワンコがお客様を呼び寄せる。ワンコとのお散歩コースは地元の商店街である。ワンコこそが商店街の賑わいの原動力である。
ワンコの目線で商店街を考える。ときどきワンココラムをアップする。暇を持て余した時にでも眺めていただければ幸いである。
第7回:大牟田のモモちゃん
プロダクトアウトとマーケットイン。前者は生産物を市場に売り込むことであり、いいものは売れて当然という考え。後者は市場の需要を見て生産することであり、お気に召すものをお作りしますという考え。続きを読む